機関紙「シャローム」より
2024年1月31日発行 №363 第3面

私の友人は、「こんなはずじゃなかった。」と最後の言葉を残し、
59歳で亡くなりました。
人の命は短くてはかないものです。普段は気づかないのです。
それに気づき慌てるのは余命を宣告されたときです。

「生きる」という黒澤明監督の映画があります。
志村喬演じる市役所の市民課長が胃がんを宣告され、
死への不安の日々が続く中、市民の苦情を聞き流しながら、
何もしてこなかったことに気づきます。
自分の人生をふりかえり、「そうか、俺にはまだできることがあるんだ。」と
かねてから市民の念願だった児童公園の建設に取り組み、完成させるのです。
雪の降る夜、ブランコにゆられながら「ゴンドラの唄」の歌詞を口ずさみながら、
彼は息たえました。
残りの人生を人のために生きようとしたこの市民課長の生き方は
観る人の心に賞賛をもたらしました。

神を冒涜したとして捕えられ、議会で裁判を受けたステパノという人物が
聖書に出てきます。
このときステパノは命の危険を冒してまでイスラエルの歴史を語ります。
彼は、怒り狂う群衆から石を投げつけられながらも
神の右におられるイエス・キリストを見ていたのです。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と
大声で叫び、眠りにつきました。
私たちにとって、最大の敵は死です。
どんなに大金を積んでも、どんなに善行をして賞賛されても
自分の力では死に打ち勝つことはできません。
ステパノの死は人の目にはなんと悲惨で、惨めに映ったことでしょうか。
しかし、ステパノは、イエス・キリストを主として迎えていたのです。

イエス・キリストは、十字架の上で
「父よ、彼らをお赦しください。」と願いました。
ステパノも、
「この罪を彼らに負わせないでください。」とひざまずき叫びました。
イエス・キリストがステパノを支配していたのです。
十字架の死よりよみがえり、死を打ち破ったイエス・キリストを信じ、
その救いを受け入れるときこそ死に打ち勝つことができるのです。
ステパノは死に勝利したのです。すでに天に想いを馳せていたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
(聖書)

人は誰でも「老いと死」を経験します。
受け入れたくなくても、まだ大丈夫だと思いたくても、必ずやってきます。
映画「生きる」の市民課長の死は、
「1日1日を大切に生きたい。」と人々の共感を誘いました。
しかし、彼のブランコは、救いのない死の「はかなさ」、
「むなしさ」にゆれていたのです。

私たちは「永遠」に目を向けることができるのです。
希望があるのです。
それはイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、
永遠の命を得ることです。
私たちの人生のゴールはここにあるのです。
私たちの生きる目標なのです。

By izumi

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